母里両八幡宮社記

母里地名伝承

  出雲風土記に『所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらししおほかみおほなもちのみこと)、越(こし)の八口(やくち)を平(ことむ)け賜(たま)ひて還(かへ)り坐(ま)す時(とき)、長江山(ながえのやま)に来坐(きま)して詔(のり)りたまはく、我(あ)が造(つく)り坐(ま)して令(しら)す國(くに)は、皇御孫命(すめみまのみこと)平世(やすくに)と知(し)らせと依(よさ)し奉(まつ)り、但(ただ)八雲(やくも)立(た)つ出雲國(いずものくに)は、我(あ)が静(しづま)り坐(ま)す國(くに)、青垣山(あおがきやま)廻(めぐら)し賜(たま)ひて、玉珍(たま)置(おき)き賜(たま)ひて守(も)りなむと詔(の)りたまいき。故(か)れ文理(もり)と言ふ。〔神龜三年(じんきのみとせ)に、字(じ)を母理(もり)と改(あらた)む。〕』と有って、後年さらに『母里(もり)』と改められ今日に到る。

西  八  幡  宮  (郷  社)
  島根県安来市伯太町大字西母里123番地鎮座

御 祭 神
 
誉  田  別  命 (應 神 天 皇) 一座
田  心  姫  命 (宇佐島坐大神)  
湍  津  姫  命 (宇佐島坐大神 一座
市 杵 島 姫 命 (宇佐島坐大神)  
氣 長 足 姫 命 (神 宮 皇 后) 一座

鎮座の由来
 当社の縁起書によりますと、應永12年(西暦1405年)又一説に天授元年(神明帳)母里の郷司廣江氏の弐男廣江兵庫が遠檀原に城郭を築き、西母里を守護するに当たり勧請崇敬したと伝えられる。はじめ遠檀原に社殿を建立したが、のち現在の地に奉遷した。山号御笠山、山裾の地域を宮垣と伝えます。


合        祀
 御  祭  神(明治四拾参年八月弐拾六日当社に合祀)
大  日  霊  命 元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座大神社と称し、由緒文久元年(西暦一八六一年)十一月十二日伊勢国宇治郷五十鈴河上之鎮座皇太神宮神璽出雲国安来市母里領司松平悦之進の臣柴田協奉迎勧請と伝える。
須佐男命
 二座
元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座、真根喜神社并合殿園神社と称し、由緒不詳なるが元禄年間の奉勧請と伝える。
經津主命 元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座、嶽神社と称し、由緒不詳なるが寛文年間の奉勧請と伝える。
軻遇突智命 元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座、火除神社と称し、由緒不詳なるが文政年間の奉勧請と伝える。
菅原道眞神霊 元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座、神楽崎神社と称し、由緒不詳なれど文化六年の奉勧請と伝える。
大日霊尊 元、能義郡母里村大字西母里字西市に鎮座、日御崎神社と称し、由緒不詳なれど寛文年間の奉勧請と伝える。祭日  9月26日
事代主命 元、能義郡母里村大字西母里字下町に鎮座、惠美須神社と称し、由緒不詳なれど文化年間の勧請崇敬と伝える。
大己貴命 元、能義郡母里村大字西母里字招に鎮座、佐古神社と称し、由緒不詳。  祭日  9月30日
猿田彦命 元、能義郡母里村大字西母里字町後に鎮座、導祖神社と称し、由緒不詳。
事代主命
三穂津姫命
元、能義郡母里村大字西母里字城山に鎮座、揖屋神社と称し、由緒不詳なれど亨保年間の勧請と伝える。祭日  7月19日・10月5日

境内神社

 若宮神社    御祭神  仁徳天皇
 武内神社    御祭神  武内宿禰  三社合殿
 高良神社    御祭神  高良玉垂命

     由緒 若宮神・武内神・高良神共に、縁由により勧請崇敬される。
 稲荷神社    御祭神  倉稲魂命
     由緒 母里藩二代藩主松平美作守直立が元禄7年(西暦1694年)
        五穀豊穣・領民安寧の守護神として、松江城内稲荷社より勧請せられ、母里藩領内悉く氏子となった。
        元社地は、現在の忠魂碑の建つ処である。


お  祭  り
  大      祭
  例      祭    10月15日  (前夜祭10月14日)
  例祭当日祭・神幸祭・紐落祝祭・年賀祝祭
  祈年祭    2月28日
  新嘗祭    11月28日
  小      祭
  歳旦祭    正月元旦   火鑚神事・富籤(御縁起物頒布)
  元始祭    正月3日
  厄除祭    正月15日
  節分祭    立春前夜      追儺行事(まめうち)
  六月大祓い    6月30日    人形流し・茅の輪神事
  夏      祭    7月25日  (前夜祭7月24日)
  八幡宮・園神社・神楽崎神社・忠魂碑の夏祭り
  夏祭当日祭・悪疫防護丹祷祭・神幸祭又町内で神賑行事も盛ん。
  除夜祭    12月31日



東  八  幡  宮  (村  社)
  島根県安来市伯太町大字東母里409番地鎮座

御祭神
誉  田  別  命 (應 神 天 皇) 一座
田  心  姫  命 (宇佐島坐大神)  
湍  津  姫  命 (宇佐島坐大神) 一座
市 杵 島 姫 命 (宇佐島坐大神)  
氣 長 足 姫 命 (神 宮 皇 后) 一座

鎮座の由来
 当社の縁起書に、高倉天皇御宇承安2壬辰年(西暦1172年)出雲国主悪七兵衛平景清の臣小畑権太夫実家母里郷を預かるにあたり、始めて平松に奉建立する。慶安2年(西暦1649年)東母里古市と申す所え奉遷したと伝う。山号南光山  旧社地に八幡原、神宮寺、宮谷と申す旧址あり又現社地にも神宮寺址あり。

合        祀
 御  祭  神  (明治四拾参年八月弐拾七日当社に合祀)
菅原道眞神霊 元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、狭井神社と称し、由緒不詳なれど寳永年間の奉勧請と伝える。
大己貴命 元、能義郡母里村大字東母里字蛇喰に鎮座、豊岡神社と称し、由緒不詳なれど寳永年間の奉勧請と伝える。
伊弉册尊
國常立尊
元、能義郡母里村大字東母里字井戸に鎮座、客神社并合殿井戸神社と称し、由緒不詳。祭日  七月六日・十月十九日
大山祇命
素戔鳴尊
元、能義郡母里村大字東母里字才ケ峠に鎮座、大山神社と称し、由緒不詳。
大山祇命
素戔鳴尊
元、能義郡母里村大字東母里字御崎峠に鎮座、大山神社と称し、由緒不詳。
大穴持命 元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、青垣神社と称し、由緒不詳。祭日  四月三日・十月三日
大己貴命 元、能義郡母里村大字東母里字守合に鎮座、岩上神社と称し、由緒不詳。祭日  七月一日・十月七日
倉稲魂命
須佐男命
元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、稲森神社并合祀園神社と称し由緒不詳。祭日  十月二十日

境内神社
 若宮神社    御祭神  仁徳天皇
 武内神社    御祭神  武内宿禰      三社合殿
 高良神社    御祭神  高良玉垂命

     由緒 若宮神・武内神・高良神共に、縁由により勧請崇敬される。
 荒神社     御祭神  素戔鳴尊
     由緒 縁由勧請不詳。
 日御崎神社 御祭神  大日霊尊
     由緒 縁由勧請不詳。


お  祭  り
  大      祭
   例      祭    十月十五日  (前夜祭十月十四日)
   例祭当日祭・神幸祭・紐落祝祭・年賀祝祭
   祈年祭    二月二十八日
   新嘗祭    十一月二十八日
  小      祭
   歳旦祭    正月元旦   火鑚神事・富籤(御縁起物頒布)
   元始祭    正月三旦
   節分祭    立春前夜      追儺行事(まめうち)
   夏      祭    七月一日
   除夜祭    十二月三十一日



八  幡  信  仰

  当母里郷は、古くは出雲の大神を氏の神と奉祀したと思われますが、中世以後武家社会の台頭に伴って八幡神の崇敬が始まり、現在まで東西両八幡宮を以て氏神と崇敬奉祀しております。
  「八幡神」への信仰は古く、若宮つまり小児の形をした神への信仰或いは穀霊的なものへの信仰であったと考えられています。古代では、若宮つまり小児の形の神の生誕を祝う祭りがあり、その時に数多く旗を立て祀ったので、多く旗を立てたところから八幡(やはた)と呼ばれ、豊前宇佐の地域はそうした祭りが特に盛んに行われたところから、この神名が生じたと考えらます。極めて活発な活動をしたこの神は、やがて一面銅の産出を司る神となり、他面ではよく託宣する神として中央まで聞こえ、鉱産の保護神となってそれが政府の鋳銭の資材となり、仏像の原料となるに及んで中央との結びつきが生じました、東大寺創建に際し、大仏の鋳造に力のあったことは著名で東大寺の鎮守として手向山八幡宮と祀られるところと成りました。早くから仏教と結びつきがあり、平安時代の初めに朝廷から大菩薩号を贈られ、貞観二年に僧行教によって京都の南郊石清水に石清水八幡宮が創立されるに及んで、この神の信仰がより大きくなりました。そのころに御祭神を応神天皇と考えられてまいりますが、それは小児の形の天皇であったことと、九州の地を本拠とされたことで有りました。とくに賜姓源氏の氏神と仰がれ武神的色彩を強めながら、やがて武家社会全体の守護神と信仰されて参ります。中世の三社託宣の中で、八幡神託宣は「雖為鉄丸食不受心穢人之物」とありそれが破邪の神とも信仰されて参りました。武士社会の進展につれて全国いたるところに八幡神は祀られ多くの信仰を集めて参ります。


東西両八幡宮口碑伝承

  高倉天皇の御代出雲国主悪七兵衛平景清広瀬にありその臣小畑権太夫実家母里の郷司として亀遊山に城砦をかまえて居るに、承安二壬辰年(西暦一一七二年)小畑権太夫館より南方に当たって夜々怪光を放つものの有るを見て怪しみて、士卒を行かしめ真偽を糺さんとするに、現在神宮寺の少し下った所に大なる老松あり、その枝を窺うに、白羽造の箭一雙懸り、士卒これの造りは普通で唯光輝を見て持ち帰り、小畑権太夫実家に告げる、小畑権太夫は、即ち此の箭は武神八幡宮の神箭である、わが家武運長久の瑞兆であろうと喜び初め居宅に小社を建立祀ったが、やがて小畑権太夫は、心中に神威を恐れ、広く土地の人々に崇敬なさしめんと思い、箭の懸かかった松の近く浄地を撰び、八幡宮を建立して広く人々に参詣せしむることとした。
  今に此の地を「宮の谷」と称し、宮の跡を「もと宮」と云って礎石を残す。白羽の矢の懸かる松は平たく繁茂せる大樹にて俗に「平松」と称した松で、現在此の松の有った地域を平松と云う。
  降って慶安二年(西暦一六四九年)現在鎮座地南光山に奉遷したと伝えられるが、一説には今少し古い事であろうと、とにかく奉遷の際に南方に異光を認めし因みにより南光山としたのは明らかである。
  後小松天皇應永年間、母里郷司に廣江氏来たり、廣江氏には三人の子有り、長子を治部少輔、次男を兵庫、末子を市弥と呼んだ。屡合戦起こり、斉藤摂津守と戦闘のとき廣江氏の軍苦戦に陥り末子市弥は遂に闘死した、この上は神威を借りて敵を破るの外なしと治部、兵庫、相倶に中心八幡神に祈願したところ、俄に南光山に黒雲湧きおこり摂津守の陣を覆や黒雲変成して数百の白羽の箭となって陣を襲い廣江軍の奮闘とともに遂に勝利得た。以後は前にまして八幡宮を崇敬するところとなった。伝承には、この頃東八幡を現在の地に奉遷したとも言われる。しかして後、次男兵庫は分家せしめ居砦を卯月遠檀原に構え西母里を守る事となったが、然るに何故か此の後兄弟不和となり、兄治部少輔は弟兵庫に東八幡宮に参拝するを禁じたので、兵庫は、されば我も又建立せんとて應永十二年乙酉(西暦一四〇五年)(又天授元年との説も有り)西八幡宮を建立した。
  伝承には、初め卯月遠檀原の今日「社祉」と称する所に祀り、祭礼の節は、現在鎮座地御笠山に続く「御幸山」に神輿の行幸を行って遥かに東八幡宮に対抗したと言い、又一説に現在鎮座地に建立して常に垣をめぐらして、東母里の者達を詣でさせずと、今にその跡を「宮垣」と言えるはその証と言えるが、今は明らかに成しがたい。

*三社託宣*
三社とは、伊勢の皇大神宮・八幡神の八幡大菩薩・春日神の春日大明神のことであり、その託宣はそれぞれ正直・清浄・慈悲と言う三の徳目に因っている。鎌倉時代から室町期初めに成立、公家社会に後には武士に信仰されるのである。
伊勢を正直、八幡神を清浄、春日神を慈悲とする思想。